Cyber NINJA、只今参上

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第五福龍丸展示館

 熱帯植物館から西へ100mあまり、白川郷の合掌造りのような急な傾斜の三角形の断面をした建物がある。ちょうど1カ月前リニューアルオープンした「第五福龍丸展示館」である。濃い茶色の屋根の下には、ペンキのはげかかった古い漁船が納められている。これが、ビキニ環礁の水爆実験で放射能被害を受けた第五福龍丸そのものだ。

 

 この船は第二次世界大戦終了後の1947年に竣工、新鋭のはえ縄漁船として遠洋漁業に出、マグロをとって戦後日本の食糧難を支えていた。全長約30m、排水量140トンほどで決して大きな船ではない。乗組員は23名。

 

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 1954年3月、マーシャル諸島近海で操業していた福龍丸は、ビキニ環礁で米軍が行った水爆実験の「死の灰」を浴びて乗組員全員・船体・捕獲した魚が被ばくしたというのが「第五福龍丸事件」である。実験当時、米軍が設定した実験の影響範囲に福龍丸はいなかったのだが、米軍の想定を超えた範囲に放射性物質を含む灰が降った。

 

 この水爆実験は水中爆発だったので、降った灰は大部分がサンゴ礁の燃えカスと見られている。のちに米軍は危険水域を当初設定のものから数倍に広げて再指定した。米ソ冷戦の始まろうとするとき、より強力で確実な兵器をと米国が焦って拙速に実験を強行した可能性はある。現実に、この実験で多くの米軍軍人が放射性被ばくが原因と思われる症状で死んだり重度の後遺症を負うことになる。

 

 第五福龍丸は直ちに母港である焼津港に寄港したが、十分な除染措置が取られなかったため、乗組員への被ばくは進んだものと言われている。もちろん、当時普通の人たちに関連の知識はなかった。直接の死亡者は無線長一人だったが、この事件を契機に日本国民の反核意識は高まる。一方米国としては、日本の被害は僅少だとの意識があったのだろう、本件を簡単に済ませようとした。

 

 オリンピック会場にもなる夢の島公園に、このような展示館がリニューアルオープンした意味は大きい。海外から来た人たちにも見てもらおうということだろう。