Cyber NINJA、只今参上

デジタル社会の世相をNINJAの視点で紐解きます。

江戸城の大楠公

 霞ヶ関での会議を終わって、次の会議は有楽町。桜田門から江戸城の外郭を抜けて歩いていくことにした。天気がいいせいか、昼時のせいか多くの人出があった。観光客がカメラやスマホを構える先、有楽町をのぞむ一角に、大きな銅像が立っている。

 

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 脇の売店の看板に「くすのき」と書いてあるように、この銅像「大楠公」こと楠木正成の騎馬像である。鎧兜に身を固め、左手でタズナ、右手に太刀を持った勇壮なものである。楠木正成は、摂津(今の大阪府)と大和(今の奈良県)辺りに領地を持つ武士であった。赤坂・千早の城に籠って鎌倉幕府の兵力をさんざんに懲らしめたことから、山賊のたぐい(悪党)と伝えられてきたが、最近の歴史家は上記のように述べている。
 
 後醍醐天皇の「建武の親政」の中心人物のひとりであり、鎌倉幕府を倒した後の天皇政権運営に寄与した。優れた戦術家ではあったが、大軍を指揮する能力は無かったようで、最後は寡兵をもって足利尊氏の大軍に挑み敗死している。
 
 一度は足利軍を破った天皇親政軍だったが、西国で兵をまとめた尊氏が再び京に迫った。正成は京市街を捨て叡山に籠り、大軍ゆえの補給問題を尊氏軍に押し付ける策を献じるが、「年に二度も天子が都を開けることは好ましくない」との公家たちの反対にあって、もはやこれまでと死地に向かったと伝えられる。太平記を扱ったあるゲームで、その能力は戦術能力は最強だが指揮できる軍の規模に制限を受けるという形で表わされている。
 
 彼が江戸に来たという記録は無いのだが、明治政府が建武の親政同様天皇を中心としたものだったことから、その時の忠臣である彼を象徴的なものとして祭り上げたものである。従って江戸城が皇居となった明治期に、その象徴としてここに銅像が立ったものだろう。
 
 日本史の上で、戦術能力では3本の指に入る人だと思います。でも銅像のような姿よりは、ゲリラ戦を指揮している姿の方が似合っているのではないでしょうか?