1941年秋、最初の冬季には枢軸軍は攻勢をかけられない(ロシアの厳冬ルール)から、今年のラストチャンス。北はルヴォフとその隣の橋頭保から、タリンと周辺の港湾都市に侵攻する。ここは前のターンに陸路上は補給切れにしたのだが、レニングラード港にいるソ連海軍が洋上補給をして1個ずつの歩兵・機甲を生き長らえさせていた。
中央ではミンスクとその西側に、数個軍が生き残っている。これは南北からドイツ機甲が補給路切断に出たのだが、1ヘクスだけ押し戻されてそこに補給路が通ってしまっている。うまくいっていれば、この二カ所とも前のターンで除去できていたかもしれない。1ターンをロスした感じはある。
南にはソ連軍も強力な部隊を配備していないし、沼沢地の南から回り込んで、ドネプロペトロウスクを占領すれば、ルーマニア国境にいるソ連歩兵は全部補給切れになる。だから中小同盟国軍に任せておいて、機甲部隊はキエフを目指す。
4ヵ所で攻勢をかけたドイツ軍は、ミンスク北の戦闘で大きな被害(歩兵3個と3航空戦力)を被った以外は、順調に占領地を増やした。エストニア一帯が陥落したことで、バルト三国等を占領して得ていた25BRPをソ連は失った。
このほかレニングラードの北東では、フィンランド軍3個歩兵がじりじり前進、ヴォロクダまで進撃しようとしている。これに対してソ連軍は消耗戦で少し戦線を押し戻したが、ミンスク西の部隊は全滅してしまった。南部ではドニプロペトロウスク前まで戦線を下げた。
さらに北ではフィンランド軍を1ヘクス押し戻し、ヴォロクダに歩兵(3-3)を配備した。この街を失うと、北極圏にあるムルマンスクに届く米英からの補給のルートが断ち切られてしまう。これはソ連にとって、きわめて不利なこと。イギリスがノルウェー攻略を急いだのも、ムルマンスク護送船団を安全にするためだった。
一方地中海では、比較的平穏な日々が続いている。イタリアが同盟国と化したヴィシー政権の植民地レバノンに、2個歩兵を3個艦隊で海輸しようとして海戦が発生した。この輸送を許すと、パレスチナが危うくなる。ジブラルタルの2個艦隊が出撃、シシリー島からの空襲とマルセイユからのフランス艦隊の妨害を受けながらも、イタリア艦隊をタラントに追い返した。
イギリスは北極回りでソ連に40BRPを届け、1941年が終わった。1942年になり、ついに米国が参戦する。
<続く>