子供のころ見たTVドラマ「燃えよ剣」の影響で、僕の中の土方歳三は俳優栗塚旭である。もちろんその原作となった司馬遼太郎の小説(*1)も読んだ。武州日野の郷士だった歳三が、田舎道場から新選組のバックボーンとなり、近藤勇らの死後も官軍に抗って北へと転戦した生涯が綴られていた。
昨年の京都旅行で壬生の屯所跡を訪問(*2)し、今年は会津でその戦場も味わった(*3)。今回の函館旅行では、改めて新選組終焉の地を巡ってみた。会津では剣の達人だった副長助勤斎藤一が、臨時隊長として戦った。一方箱館に向かった土方の配下にいた元新選組隊士は伍長島田魁ら20名ほどだったという。

箱館新政府軍最強の指揮官だった土方は、箱館戦争終盤に函館駅北にあった<一本木関門>を護るため出撃し、戦死している。五稜郭と函館山に籠る新政府軍が分断されそうになっていて、ここが最重要ポイントだった。

その後五稜郭の榎本武揚らは降伏、函館山の新選組生き残りたちの多くが戦死した。土方はじめ彼らが葬られているのが、魚見坂の中腹にある称名寺である。

魚見坂を下ってきて、市電の函館どつく前電停まで来ると、そこにこんな石碑が。函館山は官軍の動静を見張るためにも重要な拠点、元新選組はじめ精鋭部隊が配備されていたはずだ。しかし一本木関門を占領されてしまうと、本拠である五稜郭との連絡が絶たれてしまう。指揮官土方歳三の戦死後、それを知ってか本拠との連絡が途絶えたせいか、かの部隊は函館山の麓まで撃って出て戦死したものと思われる。
幕末の一時期名をはせた、新選組の終焉の地まで訪問することが出来て、今回の旅もとても満足できるものでしたよ。