16世紀に灌漑技術が普及するまでは、今の大都市を要する湾岸地域(東京湾・大阪湾・伊勢湾等)は水運か漁業主体の小さな集落しかなかった。典型的なのが伊勢湾の<輪中>である。それ以前は盆地の方が、人口を集積し産業を興す中心地だった。会津盆地もその一つで、阿賀川流域の湿地帯も多かったが、それを取り込むような山麓に集落ができ、灌漑ができるようになった後は一大米の産地にもなる。
戦国時代、そんな会津盆地に根を張っていたのが蘆名氏。400年統治したとも言われ、最後の大名盛氏は2つの城を作った。ひとつは政務のための城「神指城」。700メートル四方の規模を誇る平城で、西は阿賀川に面している。今は面影なく、北東の角に植えられた樹齢600年の大ケヤキだけが残っている。


東の磐梯山方面はご覧のように平地、障害物はないので強敵が攻めてきた場合には、ここでは戦わない。阿賀川沿いに南へ6kmほど遡った「向羽黒山城*1」に避難する。これが非常時の「詰めの城」である。

東側を阿賀川が守ってくれ、西側から登るのは急な坂道。眺望が開け峻険な地形なので、長く詰め城として使われたものだ。盛氏はこれを近代風に改修して、最大級の山城に拡張している。

深い縦堀が複数あって、そこから大石を転がして左右に逃れられない敵兵を押しつぶす仕掛けになっている。虎口は、簡単な食い違い虎口のほか、本格的な桝形虎口もあった。二の曲輪は非常に広く相応の兵力を集結できたし、敵兵の背後を突く攻撃路も用意されていた。よく考えられた<縄張り>である。

まさに無敵要塞との紹介だったのだが、実は「神指城」は完成せず、「向羽黒山城」は戦闘に使われなかった。伊達の大軍に攻められた盛氏は、会津の地を捨てて逃げてしまったからだ。戦闘用の道具というのは使ってなんぼ・・・とも思うのだが、戦えば犠牲者が出る。使われなくて幸いだったとの見方もできよう。

血なまぐさい話の後は、向羽黒山城の麓に広がる多くの窯元の一つを訪ねました。この方が平和的ですね。