Cyber NINJA、只今参上

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会津の戦史のリアル講義

 会津盆地は東北地方でも最大の盆地で、阿賀川(新潟に入ると阿賀野川)を中心に肥沃で平坦な土地が広がっている。古代から東北で最も栄えたところらしい。奈良盆地には半島経由で仏教が伝わるが、会津には中国本土(遼)から直接仏教が伝わったとも言われる。

 

会津若松駅構内

 名物の<赤ベコ>も、半島由来の赤牛だとの説もある。4世紀、崇神天皇蝦夷討伐の調査に2人の天子を派遣し、ひとりは北陸道、もうひとりは東北道を通ってこの地で会った(相った)。複数の川の合流点で船で往来したことから港(津)があったので、相津と呼んだ。のちに会津となったとの伝承がある。

 

 会津の歴史、特に戦史を教えてもらったのが、會津藩校日新館の石田館長だった。「戊辰戦争で敗れて、会津は多くのものを失った。官軍によって歴史や伝承を書き換えられてしまった」と仰る。会津には、東北一はもちろん日本一(or初)のものが数多いが、ほとんど知られていない。

 

神指城は東日本最大の平城(後の駿府城並み)

・向羽黒山城は最大、最強の山城

会津本郷焼瀬戸焼より早い磁器

 

磐梯山を臨む広大な水田

 会津の地が最大の戦乱に巻き込まれたのが、戊辰戦争新選組も戦ったし白虎隊や娘子軍の悲劇も涙を誘う。それ以前に日本史の中で、この地で緊張が高まったのが「幻の白河決戦」。関ケ原の戦いの前、石田三成は反徳川の兵を挙げるにあたり、会津120万石上杉景勝に徳川軍の誘因を依頼した。

 徳川家康は8万の軍勢を率いて小山までやってきたが、ここで上杉軍12万、佐竹軍4万が手ぐすね引いて待ち構えていることを知り、二代将軍秀忠と有力旗本を残して関ケ原に向かった。三方から押し包んで家康を討ち取ろうとした計略は失敗したのである。ただ家康も、信頼できない豊臣恩顧の大名を主力として戦う羽目になり、光成の誘因策自体は成功している。

 

 戦後上杉家は米沢に転封となり、この地には蒲生家が来て、さらに秀忠の庶子保科正之が藩主となった。会津藩の藩校は、長州の明倫館・水戸の弘道館と並び<三大藩校>として知られている。

 

 會津藩校は今も残り、石田館長はNHK大河ドラマ「八重の桜」などの時代考証で知られる方。現地でのリアル講義は面白かったです。