Cyber NINJA、只今参上

デジタル社会の世相をNINJAの視点で紐解きます。

裁判員裁判の採否

 先週、世間の注目を集めていた「池袋暴走事故裁判」の判決が出た。被告人が「上級国民」だったこと、一貫して無実を主張していたこと、実刑判決を求める被害者家族の声、などがあり、メディアも繰り返し報道してきた。争点は、

 

・アクセルとブレーキを踏み間違えたのか?

・自動車の側に誤動作があったのか?

 

 に見えたが、そんなことはクルマの中に残されたデジタルデータを解析すれば、はっきりするはずだ。報道されていないので分からないが、裁判の中ではその点はちゃんと検察が説明したと思う。だから有罪判決は、ほぼ想定通りなのだが、僕が気になったのが、裁判長の発言。

 

・過失を否定する態度に終始し、深い反省の念を有していない。

・遺族に真摯に謝ってほしい。

 

 と、反省がない故「増刑した」と言わんばかり、最後は「説諭」して判決言い渡しを終えている。求刑は禁固7年、ざっと7ガケになるから判決の5年は妥当に見えるが、高齢であることや事件後脅迫されるなどを鑑みて「減刑」していることから、やはり反省の欠如が刑の軽重に影響したように思われる。通常より重い刑を求める世論や、「上級国民ゆえ減刑された」と思われないようにとの判断が、量刑に影響したかのように見える。

 

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 本来プロの裁判官が、上記のような「感情」に左右されるべきではない。世論の意向を汲むならば、裁判員裁判とすべきだったと思う。この制度を使わなかったのなら、プロの冷徹な判断で、量刑を決めるべきではないか。ただ、現時点の裁判員制度では、一定の重大な犯罪について適用される。例示されているケースは、

 

殺人罪

傷害致死

・強盗致死傷罪

・現住建造物放火罪

・身代金目的誘拐罪

 

 などで、今回の自動車運転処罰法違反(過失致死傷)は該当しないようだ。ただここでいう「重大」の意味も、法曹界の常識と世論の感覚の間で乖離していると思う。せっかく「など」が付いているのだから、この点柔軟に運用できなかったのだろうか?

 

 市民常識を法曹界に反映したいとされて導入されたこの制度、米国の陪審員制度では「有罪/無罪」しか判定しないが、日本では量刑まで市民が決める。より踏み込んだ制度と思うので、制度の採否も「世間感覚」でやってもらえたらと思います。

 

 とはいえ、工藤会のTOPを殺人罪で死刑判決を下した裁判などには、別の理由でちょっと適用できないと思いますが。