「時刻表2万キロ」で知られた旅行作家宮脇俊三氏、鉄道好きが高じて日本中の鉄道はもとより、台湾・中国・シベリア・インドなどを乗りまくる一方「鉄道考古学者」と自称して、廃線跡など巡る紀行文を遺した。
鉄道考古学者の旅 - 新城彰の本棚 (hateblo.jp)
その著書の中でも何度も登場するのが熱海周辺。丹那トンネルが開通するまでは国府津~熱海間は東海道線ではなく、熱海線と呼ばれる行き止まり路線だった。当時の東海道線は国府津から、現在の御殿場線を通って沼津に抜けていたのだ。
その頃までの知識は、宮脇先生の本で知っていたが、実は国鉄が熱海線を敷く前にも、熱海までくる鉄道はあった。それが私鉄の「熱海鉄道」、小田原(早川口)から熱海までの25.3km間に、14の駅があったという。全線開通し蒸気機関車で運転され始めたのが1908年、熱海駅前のロータリーには当時の蒸気機関車が展示されている。しかし国鉄の熱海線が延伸してくると、その役割を終え1924年には廃線となった。
しかし「熱海鉄道」以前にも、熱海までの軌道はあった。それが「豆相人車鉄道」。伊豆と相模を結ぶものだが、人車というのは人が推す「人力車輛」の意味である。
1895年 吉浜~熱海間10.4km開通
1896年 吉浜~小田原間14.4km開通
して、「熱海鉄道」に軌道を譲渡するまでの10年ほど営業運転をしていた。片道所要時間は3時間から3時間45分ほど(正確な運行は不可能)で、一日6往復の単線・非電化(当たり前だが)路線だった。
このレリーフは旧南明ホテル、今は大江戸温泉物語熱海館になっている建物の入り口にあるもの。人が客車を推している情景が描かれている。ここが当時の「熱海駅」だったらしい。後に動力のある軽便鉄道になるのだが、急坂などの難所では安い運賃の客(三等?)は降りて推す側に回ったという。
熱海の周辺は海と峻険な山に囲まれていて、温泉は魅力なのだが往来にはこのような苦労があったということだ。今日は駅前からレリーフのところまで歩いてきて、その歴史をかみしめることができた。
今は新幹線で、50分足らずで東京丸の内に行けます。文明の発展と言うのは、本当にありがたいものですね。