信州上田のお城は、稀代の謀将真田昌幸が此れに拠って徳川軍を2度にわたって悩ませた名城である。決して規模の大きな城ではないが、南に千曲川の尼ガ淵、北に太郎山があって天然の要害である。武田勝頼も織田信長も逝って4年後の1586年、徳川家康は上杉家に通じている真田を討とうと、鳥居本忠、大久保忠世らに7,000の兵力を与えた。
守るは真田家の1,200。この第一次上田合戦では、昌幸の指揮の下2人の息子(信之、信繁)が縦横に活躍、徳川方は1,300もの損害を出して敗退している。自ら出陣したものではないが、家康にとっては痛い敗戦となった。
家康の後継者秀忠は、徳川軍の譜代大名中心の主力38,000を率いて京に上る途中、上田城に篭る真田親子の3,000未満の兵に翻弄される。結局上田攻略をあきらめて京に向かう途中の美濃山中で関が原の合戦が終わってしまったことを伝えられ、秀忠はその場に崩れ落ちたという。このあたりの事情は、池波正太郎の諸作に詳しい。
もともと壮麗な天守閣があったわけではなく、地域を統べるための行政機関を置いただけで、いざという時のための戦闘用の城と言うのが上田城の実態。今では数基のやぐらが往時をしのばせている。そんな上田城(のおそらくやぐら)を再建するために、匿名の市民が10億円を寄付したという記事を先日目にした。
あるところにはあるものだが、城の復元の費用にというのはある意味贅沢な話。もちろん、何人分の生活保護にあたるのかとか、医師不足対策に10億円あればという議論もあるかもしれない。ノートルダム大聖堂復興資金を貧困層に廻せなどという話はここでは起きていないのが幸い。個人でもできる歴史への感謝、街を作ってくれた真田一族への感謝があるのでしょうね。
もともと壮麗な天守閣があったわけではなく、地域を統べるための行政機関を置いただけで、いざという時のための戦闘用の城と言うのが上田城の実態。今では数基のやぐらが往時をしのばせている。そんな上田城(のおそらくやぐら)を再建するために、匿名の市民が10億円を寄付したという記事を先日目にした。
あるところにはあるものだが、城の復元の費用にというのはある意味贅沢な話。もちろん、何人分の生活保護にあたるのかとか、医師不足対策に10億円あればという議論もあるかもしれない。ノートルダム大聖堂復興資金を貧困層に廻せなどという話はここでは起きていないのが幸い。個人でもできる歴史への感謝、街を作ってくれた真田一族への感謝があるのでしょうね。